the world according to sugi

法事に持っていくお供えは花や食べ物である、食べ物のお供えは、墓に供えかえなければ式のあとに雲水たちが食べる、と耳にしていたので家族のものにもその旨伝えて若い人達が好きそうなものを山のように持っていった。式のあとでお供えの食べ物を片付ける若い僧の顔が見事に喜色満面だったので、あー、よかった、と私もうれしかった。門前の花屋によると、法事の檀家が与える心付けなどが若い僧の唯一の小遣いで、そのなけなしの金でコンビニの鶏唐揚げ弁当などを買ってうまいうまいと食っているそうである。笑えるような話だけど、生きることのどうしようもないバイタリティが垣間見えるような気がして、私には死とよいコントラストをなしているようにさえ思える。生きている、というのは実に愛すべき、滑稽なことなのだ。

三回忌 - kom’s log

theshipthatflew:

Kawase Hasui, Snowstorm at Mukojima, 1931, woodblock print (via)


Milton Friedman のインタビューを見たが、やはり「複雑さ」の問題が 見落されているような気がした。市場原理が本当にうまくいくのは、 どうしても単純な基準ですべてが評価できる場合だけのような気がする。 そもそも、人類がみんな自分にとって何が本当にいいのか判断できるなら苦労しない。

2010年12月


自由というのは、何でも好きなことが出来るような状況のことではなくて、ある条件があり、ある規則が与えられ、多くの人が、そのなかではこのように動くほかやり方がないと思い込んでいる時に、その条件のなかで思ってもみなかったまったく別の動き方を発見してみせることであり(だから、自由は常に、正統からみれば邪道であり反則技であろう)、その可能性のことだろう。

2010-11-04 - 偽日記@はてな

ところで (てくるで) 「保守」的な、あるいはリバータリアン的な思考というのは、 基本的には「自然界の合理性に従え」ってことなのだと思う。 この思想を極端に押しすすめると、結局のところ (ケッキョキ) 「貧富の差はあって当然」 「女は女らしい仕事 (=子供を埋む) をせよ」「障害者は淘汰されるべき」 といった論理になってしまう。なぜなら実際、 自然界ではそういうことが観測されているのだから! 保守と人権という概念は根本的に相容れない。 (もっとも、このことに気づいていない保守的な人々は沢山いそうだけど) ここで新山は、なにか政治的な意見を表明したいわけではない (あいかわらず政治には興味がない)。ただ、世の中はそうなっているらしい、 ということに最近気づいたので書いておく。新山個人の考えは たぶんリベラルに寄っているのだろうが、はっきりいってオレの意見なんか どうでもいいんだよ。どちらにせよ、近視眼的な「合理性」を 信奉する人々はいつもウサン臭いと思っていたほうがいい。

2010年11月

それが自律的な体制のことを意味するのであるならば、我々は社会主義を拒絶することはできます。しかし資本主義を拒絶することはできない。ただそれを慎重に改良することができるだけです。

言うておきますが - インタラクティヴ読書ノート別館の別館

The value of life can be measured by how many times your soul has been deeply stirred.

2010-03-07 - kom’s log

プログラミングに必要な能力ってなんだ? おそらくコーディングの能力などは たいして重要でない (それは必要ないという意味でいっているのではなく、 誰でもすぐ身につけられるという意味で) ので、 以下の 3つにしぼられるんではないかと考えている。その能力とは:
問題を発見する能力
問題を分析する能力
そして
問題を切り捨てる能力
である。
実は、これらは設計の時だけじゃなく、実装する時でも ほかの日常生活のすべての瞬間においてもつねに求められている。

2010/2 (a)

消えかけていた大相撲に活気と生気を与えたのが、外国人力士の登場であった。「内無双」とか「大網」などという技を、朝青龍関によって知った。新風によって伝統が復活した。 
 もはや心から大相撲を楽しむことはないだろう。貴乃花親方の理事就任に何かを期待する人もいるが、私はそんな期待はてんから持たない。貴乃花親方へのインタヴューの発言を見よ。これが、何かを成し遂げようとする人の発言であろうか? 朝青龍関との違いは、自分の言葉で話す人と、他人の入れ知恵やクリシェでしか話せない人との違いである。朝青龍関は、外国語である日本語を使ってさえ、はるかに生きた日本語を使えるのである。
 こうして日本の伝統的文化の一つ一つが、私の中で消えていく。伝統は「純化」することによってはますます委縮し、枯渇してゆくものなのだ。真剣な交流がないところに生命はないからである。

ララビアータ:朝青龍関の引退
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